1日だけ体験できるおこづかい
「悪夢のように」人々は財産を失っていったのだ。
話はそれるが、今日の不況突入に直面して、この記事と同じ気持ちになっている人は多いのではないだろうか。
話を元に戻そう。
当時、物価も恐ろしい幅で下がっていった。
昭和四年の七月と五年の十二月とを比べると、卸売物価が二七%、小売物価が二三%下がり、翌六年に入ると年平均で小売物価が二六・三%も下がった。
日本全体の工業生産は四?六年で三割近く減退し、失業者は最盛期で二○○万を超えていた。
「K新聞」は一○月六日の号にこう書いている。
「株保有者の値下がり損といふのは大したもので、これまで百万円の人は五十万円か三十万円、十万円の人は四、五万円と、まるで夢のように財産が消えてなくなった」。
昭和五年(一九三○年)、満鉄(南満州鉄道株式会社)が創業以来初めての赤字を出してしまう。
国策会社は独占的に権益を与えられて事業をしている。
競争相手は存在せず、本来赤字になるはずがないのにこうなってしまったのは、大恐慌が植民地の満州にも及んでいたからだ。
主な収入源の大豆の輸送量が減少したのだ。
昭和六年(一九三一年)九月十八日に満州事変が勃発し、以後戦時経済に突入していくこととなるが、その二百後の二十一日、世界を震憾させるニュースが走った。
イギリスが金本位制から離脱すると声明を出したのだ。
国際基軸通貨ポンドを有するイギリスは、金本位制の要である。
イギリスが国際協調よりも自国の利益を優先して金本位制から外れた以上、各国の離脱は時間の問題であった。
日本も例外ではない。
日本が金本位制に復帰して一年半ほどしか経ってないにもかかわらず、各国の通貨は金という裏付けなしの独自発行に走り出していた。
日本の景気後退は、世界大恐慌の一環に完全に組み込まれたのだ。
日本が金本位制から離脱すれば(金の輸出が禁止されれば)円の価値が下がるから、円の暴落は避けられない。
その前にドルを買い込んでおいて円が暴落したときにそのドルで円を買い一戻せば巨利を得られると読んだ銀行筋は、猛烈な円売り・ドル買いに向かった。
昭和五年の七月から六年の十二月までに、国際通貨取引の唯一の窓口である横浜正金銀行は七億六○○○万円分のドルを買った。
六年の十、十一、十二月の三ヵ月だけで五億一○○○万円分のドルを買っている。
わずかの間に、これだけ巨額の金正貨を日本は手放したことになる。
当時の年間輸出総額は約一三億円だった。
輸出で稼ぐ金の四○%近くを、ドル買いのために使ってしまったわけだ。
なかでもM財閥のドル買いは目立ち、銀行・物産・信託を総動員して買いまくり、のちの右翼テロの標的にされる下地を作ることとなった。
政府はドル買い筋の資金を断つべく、金利を引き上げたが、これがますます経済を冷え込ませることとなり、この年(昭和六年)、景気はついに底をつき、最悪の局面を迎えることとなる。
アメリカ株式市場の大暴落は、すぐさま生糸価格の崩落を呼んだ。
刻々と変わる生糸価格下落の新聞記事を見て、製糸工場と輸出関連の業者の表情は青くなった。
そのことを業者から伝え聞いた養蚕農家も同じだった。
当時、生糸は日本の輸出商品の四割を占め、うち九割がアメリカ向けだった。
全国約五六○万農家の約四割に当たる二二二万戸が養蚕を兼業し、繭の収入は稲作収入に次いで大きいものだった。
農家経済を支えていたのは、出稼ぎと養蚕の二大副業だったのだ。
産業としての大きさということでいえば、今の自動車に匹敵するだろう。
製糸業界はすぐさま操業短縮を協議し、二週間の一斉休業に入るが歯止めはかからなかった。
昭和五年(一九三○年)三月に入ると、綿糸その他の主要商品価格は暴落していき、市場はパニックになっていく。
当時アメリカではすでにナイロンなどの化学繊維が高アメリカへの輸出が激減大学は出たけれど職はなく、昭和六年に全国の大学・専門学校を出た卒業生のうち就職できたのは二一人に一人となってしまう。
Ozの戦前の映画「大学は出たけれど」に映されている時代だ。
サラリーマンなどの中間層は職を求めて街をさ迷い歩きつづけた。
植民地としていた台湾や朝鮮半島の安い米がこのころから国内に入り始め、多い年には一○○○万石を越えたというのも、重大な原因だった。
当時、米の国内生産高は六○○○万石ほどだったから、植民地米の比重の大きさがわかろう。
米価に引きずられて野菜も下がった。
キャベツ五○個で一八銭(タバコの「敷島」と同じ値段)、蕪一○把で七銭(「ゴールデンバット」と同じ値段)というありさま。
農閑期の高級品の絹にとって代わられようとしていた。
シルク(絹)は賛沢品であったので、とりわけ不況の影響を受けやすかったのだ。
アメリカの絹の需要激減は、シアトルやサンフランシスコの港に六七万俵もの在庫が山積みされる事態となり、生糸価格はこの一年で六六%も下落、アメリカヘの輸出額は、前年比で四四%も減り、全世界への輸出総額も前年比三四%減となった。
生糸価格の下落が導火線となって、他の農産物や海産物も急速に値を下げていく。
この年、収穫前の八月にはまだ一石当たり三○円台をつけていた米価は九月末には一挙に一九円台に下がり、十月三日には大阪、東京の米穀取引所が立ち会い休止に追い込まれる。
一般に昭和恐慌期に、米は半分以下、繭は三分の一以下になったとされるから、尋常ではない。
なぜこんなべらぼうな値下がりが起こったのか。
自然相手の農業生産は豊凶作のつきまとうものだから、価格が上がったからといって急に生産の増えるものではなく、下がったからといって急に減るものでもない。
昭和五年は不況のために需要が減っているときに大豊作となって米価が暴落した年だ。
収穫期を前にして農林大臣のMTが、第一回の作柄予想として過去五年平均と比較して二一・五%の増収であろうと発表したのが、きっかけとされている。
日本の農家は零細な規模で生産を行なっているので、貧しい多くの農民は、単価の低下を数量で埋め合わそうとして例年以上にがんばって作物を作ってしまう。
皆がそれをすれば価格がいっそう下がってついには暴落してしまうのは理の当然だ。
経済学でいう「窮迫販売」というのが、これである。
昭和六年には、全国で帰農者が激増して問題となった。
工場を解雇された者のうち二八万人が、そして、鉱山をクビになった者のうち二万人が、故郷の農地に帰っていた。
もともと村で生活できないので出て行った人たちが帰農したのだから、農家の負担はそのぶん副業や出稼ぎの賃仕事も、不況のあおりでほとんどなくなり、深刻な農業恐慌に陥っていった。
政府・文部省は昭和七年(一九三二年)七月、全国の欠食児童数が二○万を超えており、未曾有の悲しむべき現況にあると発表した。
欠食児童とは学校に昼食を持っていけない子のことだ。
この発表によって欠食児童の存在が初めて公的に明らかになり、社会問題化していく。
社会不安が増大するのを怖れて、大きくなり、飢えが蔓延していく。
故郷に帰るにも旅費はなく、鉄路の上をとぼとぼ歩いていく失業者の群れが、東海道線でも東北本線でも見受けられたという。
労働争議も頻発した。
昭和六年には戦前としては最高の二四五六件の大規模争議が起こっている。
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